建学の精神 Feed

2021年8月 4日 (水)

大学の選び方~建学の精神について

聖隷クリストファー大学は、私立大学です。

受験生のみなさんは、状況や環境によって、国公立の看護学部を受験することもあるでしょう。それでは、国公立の看護学部(医学部看護学科)と私立大学の看護学部と何が違うのでしょうか?

私立大学というのは、建学の精神というのがあります。これは、その私立大学がなぜあるのか?という使命を表現したものです。簡単に言えば、教育によってどのような人間を育てようとしているのかという意味です。そのため、入学する学生にとっての最終目的は、「その学部・学科での学びだけでなく、それを下支えする建学の精神を実生活の中で実践できること」になります。繰り返しになりますが、私立大学のゴールは建学の精神を携えた人間になることです。私立大学を受験する場合は、必ず建学の精神を調べたほうがいいです。

次は、多くある私立大学の建学の精神についてです。今の時代、インターネットで検索すればすぐに調べられます。みなさんはどんな人間になりたいでしょうか。調べてみた建学の精神の中から、自分の生き方のガイドとなるような大学を選ぶのが私立大学の選び方です。そして、聖隷クリストファー大学の建学の精神は「生命の尊厳と隣人愛」です。

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高校生の時は、立地場所、偏差値、学費、ブランドなどで受験校を決めるというのが標準的な大学の決め方だと思います。しかし、私立大学というのは、その建学の精神の中で自分が学びたいところに行くというのが、一番大切なガイドの一つです。上の例でいうと「気品」を中心に携えた看護師と、「愛」を中心に携えた看護師では、患者さんの目の前に立った時の振る舞いが変わってきますし、実生活での価値観も変わってくるからです。

当然、自分が今後長い人生を生きていく上での思想は自分で考えたい、他人が作った目的地に縛られたくない、という人もいるでしょう。そのような場合は、国公立をめざすのも一つの選択肢になるでしょう。

大学の選び方は、自分がどういう生き方をめざすのか、その目的と建学の精神を照らし合わせて選択するものと考えます。しかし現実は、偏差値や地元重視で選択されており、その大学の建学の精神が何か?自分がどのように生きたいのか?など、受験生がそのような視点で大学選択を考えたり、その考える機会を与えたりする高校や大学は多くありません。

 

人間を愛するという生き方を考えたい人、まだどこの大学にするのか迷っている人は、本学の建学の精神の下で、自分がよりよく生きていくための考え方を学んでみてはいかがでしょうか。

 

精神看護学領域 清水隆裕

2021年7月 8日 (木)

聖隷クリストファー大学の精神について問いかけます 2 聖隷クリストファー大学看護学部に入ったときのゴールはどこですか? -看護は目的か?愛の手段か?-

みなさんこんにちは。みなさんが高校生の場合、このブログをご覧になっている、ということは将来的には看護学部や看護専門学校を視野に入れているのかと思われます。

さて我が聖隷クリストファー大学ができた当時は、日本で本学含め看護学部は12しかありませんでした。それが今や270を超えています。専門学校を入れたらもっと多いですよね。

それでは、今270もある看護学部と本学部では何が違うのでしょうか。本学の看護学部に入ったときの最終目的地はどこなのでしょうか?前回のブログ記事では、ケア者としての成長プロセスを挙げて「苦しみながらも自分の弱さを自覚し、受け入れて階段を下りていく作業を「愛」と言う」と説明しました。

それでは聖隷クリストファー大学は「愛」を勉強して「看護師になること」でしょうか。つまり看護が目的・ゴールでしょうか。それとも「看護」を学んで「愛するという人生を実践すること」でしょうか。つまり愛が目的・ゴールでしょうか。

どちらをめざすかは、2番目に説明した実生活の中で愛することを実践できる。これが本学の目的です。看護は愛を表現・実践するための手段です。自分という弱い人間、奇しくも病気を患い弱くなってしまった人と同じ地平に立つ(愛)ために看護を用いるのです。

 

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本学には看護学部・社会福祉学部・リハビリテーション学部とありますが、人間を愛する具体的手段には看護という方法もあるし、社会福祉という方法もあるし、リハビリテーションという方法もある。という意味です。

これまで、「愛」という用語を使ったように本学は、キリスト教精神に基づいた大学です。しかし、これはキリスト教を強制するものではありませんし、著者もクリスチャンではありません。むしろ、宗教の多様性を学ぶということは、人間の多様性を知るという意味において看護の素養につながるものです。簡単に言えば、自分の理解が及ばない、いろんな生き方・考え方(これを異文化といいます)があっていいのだ、という人間の寛容が高まります。

 

精神看護学 清水隆裕

2021年5月26日 (水)

聖隷クリストファー大学の精神について問いかけます

聖隷クリストファー大学の看護学部が大切にしている考え方と、建学の精神との関連をからめて、高校生の皆さんに問いかけたいと思います。

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さて、ここ(上の図)に縦軸があります。上は完全性や正解、豊かさ、強さです。下は不完全性やあいまい、乏しさ、弱さです。このときみなさん、学問を学ぶ、勉強する、知識や技術を身に着けるということは、どちらをめざすことでしょうか。普通は、上ですね。小学校から、その教育の中では常に正解を求められてきました。正解や知識を得ることが点数化され価値だと教わってきました。完全性を身に着けることによってどんどん明るく、立派で、華やかで、非の打ちどころのない人間になっていくというイメージです。学ぶことは、この図のようにどんどん上に登っていくというイメージですね。

では、ここで問題になってくるのは、病気になりこころが疲れた人間はどこに存在するのでしょうか。

明るく、華やかな世界にいるのでしょうか。おそらく、自分に自信を無くし、自分の弱さや不完全さに苦しみ、暗い世界で耐えているのではないでしょうか。なので病気になりこころが疲れたひとがいるのは下の場のあたりですね

そのときに、明るく、華やかで立派になったケア者が目の前に現れたら、救われるでしょうか。おそらく救われません。上に登った人間と、下の世界に沈殿している人との出会いは格差が大きすぎるのです。むしろその出会いは、世の中には立派な人がいる。自分は情けない人間だ。とかえって苦しみを強めさせてしまいます。

そのため患者さんに寄り添いたいと願うケア者がめざすは、下です。

高校生の皆さんはよく、患者さんのこころに寄りそいたい、という希望をもって看護学部入学してきますよね。

勉強していろいろな知識を身に着けると、自分がどんどん立派な人間になっていく。それは大切な人間としての生き方の一つです。しかし、ケア者になるうえで大切なことは、どれだけ勉強して知識を身に着けたとしても、やっぱり自分は「やるといいながら怠けるし、知らないこともたくさんある。嘘も言う。都合のいい解釈もする。できないこともたくさんあるのだ」という弱くもろい自分というのを、受け入れていく生き方です。たくさん知識を身に着けたとしても、立派な自分にならず弱い自分というのを受け入れていく。すなわち階段を下りていくという生き方です。

そうすると、強者が持つ圧力が丸くなり、雰囲気が穏やかな人間になっていきます。その時に、くしくも病気で弱ってしまった人と、自分の弱さを自覚しているケア者という、お互い弱い人間同士が出会うことで心のケアが発動します。

この、勇気と覚悟をもって、自分の弱さを自覚して受け入れて階段を下りていく作業を「愛」と言っているのです。なので、聖隷クリストファー大学の建学の精神は、下の世界を根っこにした生き方ができるというところにあります。

 

このように、看護師としてどう生きるのか?という問いに対して考えを深めたい人は、一緒に聖隷クリストファー大学で学んでみませんか?

 

文責 精神看護学領域 清水隆裕

 

2018年2月27日 (火)

松井先生インタビュー

松井謙次先生は、聖隷短大の時代も含めて、長年聖隷の看護教育に尽力を尽くしてきた方です。その松井先生が3月で退職されることになりました。そこで、ぜひとも松井先生の看護のとらえ方を皆さんに紹介したくなり、インタビューしに行きました。

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なぜ看護師になろうとしたのですか?

「もともと、本が好きだったのですね。人間の生き方、気持ちの揺れ動き、生きづらさ、悲しみ…中学・高校生くらいから総じて生きることの深さに興味を持っていたので、そのことが本には書かれていた。そこに自分の波長が合ったのですね。でも、社会での自分の働きはそのとき考えていなかった。大学も本が好きだから文学部に行った。卒業して就職したけれど、管理社会で人間の気持ちは大事にされないのが嫌になって辞めました。そんな時に、男性看護師に出会った。その人との対話のなかで、看護は患者さんのつらいことや悲しみを扱うということが伝わってきて、本の世界と繋がったのです。それで自分の道はこれだと思った」

 

学生のときはどんな生活をしていた?

「自分は文学部の大学生のとき学校に行かず、本を読むか酒を飲んですごしていました。でも看護学部に来てからは、学生らしい生活をしようと思って、自分なりにテーマを持って調べたり、考えたり、サークル活動、部外活動とかいろいろな先生のところに行って体験世界の対話をすることが多かったです。その中で自然と看護のこころは培われてきたかなと思います」

 

聖隷の看護って何なのですか? 

「聖隷の看護という定義は示せれないと思います。人間と人間がかかわる中で、自分は何を大切にして来たのか、どこへ行きたいのかを自分で感じ取れればいい。こうじゃなくちゃいけないって言うのはないですね。どう考えてもいいんだけれど、こう生きたいという自分の生き方を考えられることが大切なんじゃないですかね。自分が学生時代に教員との交流の中で一番シンパシーを感じたのは、他者に対して祈りをささげること、我をなくして自分を道具にして相手と向き合うという生き方ですね。自分はまず横において、相手と向き合う。その結果として、相手がどう寝て、呼吸して、活動して、外出して、食べて…何がその人らしいのかを丁寧に導き出していく。それは、自分をまず放棄しないとできないことですね。その場の解決は本当の解決じゃなく、生きづらさを共に背負っていくその苦しさに耐えること、その生き様ですね。看取られたかたもたくさんいると思いますが、そのようなケア者がそばにいてくれたときは、祈りの中に安らぎが生まれてきたのではないかと思う。なので宗教の次元が大切になってくるのだと思います。聖書に〈小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである〉とあるように、小さきもの、弱いもの、貧しいものが最も大切だと思う。それらに対して自分を無にしてかかわる。そうすると自分の中に生きる意味が生まれてくる。自分のなかに弱さ、醜さ、取るに足らなさがある。嘘も言うし、都合のいい解釈もする。でもそれだからこそ、人間なのだといえることが大切。それは自分を無にしたときに生まれるのだと思う」

 

松井先生の看護は?

「患者さんというのは、何かしら辛さ、切なさ、悲しみを持って生きていると思う。そこを眺めたり、理解しようと努力しかかわること。苦しみを軽くできるように対話すること。辛いところをわかろうとして存在すること。それがあってこそ看護になっていく。しかし、そのようなことはできない自分もあることは自覚している。」

 

悲しみや苦しみを背負えるような人生を歩むためのヒントを高校生や学生に

「自分が生きるという意味、生きるという言い方が妥当かどうかはわからないが、生きる意味を問うてみること。生きることに意味があるのか?役に立ちたいと考えるなら、自分は何で役に立ちたいと願っているのか?もう一歩もう一歩と深めていく。自分は真の意味で生きているのか。なぜここにいてどこに行くのかを掘り下げていく。人のためと言いながらも、自分がなぜそうしているのか意味を探ることを大切にしてほしい。意味を見出していくのは、自分を探す旅のようなもの。聖隷と宗教は切り離せないが、すぐに宗教に答えを求める必要はないと思う」

 

インタビュー中、松井先生は語ることや伝えることが難しいとおっしゃっていました。松井先生の語ろうとしていることは言葉が生まれる前の、人間同士の真のつながりという次元の内容だからでしょう。言葉にするとどうしても、実体験と言葉にずれが生じてきます。しかし、松井先生は大変学生からの信頼を得た看護教員でした。おそらく言葉以前の、松井先生という人間が醸し出す雰囲気や空気や態度、音声、音調…などを学生が肌で感じ取っていたのだと思います。その醸し出されている雰囲気の原点は、キーワードにもなっている、辛さや苦しみや悲しみを伴って生きることでしょう。自分の辛さ苦しさ悲しみから逃げずに、その意味を吟味していく。その過程を経て初めて、相手の苦しみと向き合えるようになるということなのだと思います。そして松井先生はそれを実際に実践してきたからこそのお話だったと感じました。

 

精神看護学領域 清水隆裕