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2021年5月26日 (水)

聖隷クリストファー大学の精神について問いかけます

聖隷クリストファー大学の看護学部が大切にしている考え方と、建学の精神との関連をからめて、高校生の皆さんに問いかけたいと思います。

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さて、ここ(上の図)に縦軸があります。上は完全性や正解、豊かさ、強さです。下は不完全性やあいまい、乏しさ、弱さです。このときみなさん、学問を学ぶ、勉強する、知識や技術を身に着けるということは、どちらをめざすことでしょうか。普通は、上ですね。小学校から、その教育の中では常に正解を求められてきました。正解や知識を得ることが点数化され価値だと教わってきました。完全性を身に着けることによってどんどん明るく、立派で、華やかで、非の打ちどころのない人間になっていくというイメージです。学ぶことは、この図のようにどんどん上に登っていくというイメージですね。

では、ここで問題になってくるのは、病気になりこころが疲れた人間はどこに存在するのでしょうか。

明るく、華やかな世界にいるのでしょうか。おそらく、自分に自信を無くし、自分の弱さや不完全さに苦しみ、暗い世界で耐えているのではないでしょうか。なので病気になりこころが疲れたひとがいるのは下の場のあたりですね

そのときに、明るく、華やかで立派になったケア者が目の前に現れたら、救われるでしょうか。おそらく救われません。上に登った人間と、下の世界に沈殿している人との出会いは格差が大きすぎるのです。むしろその出会いは、世の中には立派な人がいる。自分は情けない人間だ。とかえって苦しみを強めさせてしまいます。

そのため患者さんに寄り添いたいと願うケア者がめざすは、下です。

高校生の皆さんはよく、患者さんのこころに寄りそいたい、という希望をもって看護学部入学してきますよね。

勉強していろいろな知識を身に着けると、自分がどんどん立派な人間になっていく。それは大切な人間としての生き方の一つです。しかし、ケア者になるうえで大切なことは、どれだけ勉強して知識を身に着けたとしても、やっぱり自分は「やるといいながら怠けるし、知らないこともたくさんある。嘘も言う。都合のいい解釈もする。できないこともたくさんあるのだ」という弱くもろい自分というのを、受け入れていく生き方です。たくさん知識を身に着けたとしても、立派な自分にならず弱い自分というのを受け入れていく。すなわち階段を下りていくという生き方です。

そうすると、強者が持つ圧力が丸くなり、雰囲気が穏やかな人間になっていきます。その時に、くしくも病気で弱ってしまった人と、自分の弱さを自覚しているケア者という、お互い弱い人間同士が出会うことで心のケアが発動します。

この、勇気と覚悟をもって、自分の弱さを自覚して受け入れて階段を下りていく作業を「愛」と言っているのです。なので、聖隷クリストファー大学の建学の精神は、下の世界を根っこにした生き方ができるというところにあります。

 

このように、看護師としてどう生きるのか?という問いに対して考えを深めたい人は、一緒に聖隷クリストファー大学で学んでみませんか?

 

文責 精神看護学領域 清水隆裕