クリスマスの奇跡
聖隷は、草創より、多くの困難を克服してきた歴史をもちます。その度に、奇跡と言えるような思いもよらない出来事が起こりました。
聖隷の事業は、1930年、重い結核を患い住むところも無く食べることもできなくなった一人の青年を、長谷川保をはじめとした数名の若きクリスチャンが迎え入れ、生活を共にしたことから始まります。まさしく、聖隷のはじまりには神の愛を忠実に実践した先人の愛があったのでした。
1931年、入野村蜆塚(現浜松市中区蜆塚)の松林に、ベテルホーム(神の家)と名付けた粗末なバラックの療養所を建てました。次第に、身の寄せ場が無く病苦と飢えと社会から迫害を受けた結核患者が集まってくるようになって、ベテルホームは地域住民からの熾烈な迫害を受けます。そのような中にあっても先人は、自らの命と生活のすべてを犠牲にして、患者の療養と命の尊厳を守り抜きました。まさに、聖なる神様の奴隷として「隣人愛」に生きた生き方でした。
1937年、社会運動家の賀川豊彦の主宰するイエスの友会の献金を資金にして、三方原の県有林の払い下げを受け、ここに移転します。迫害を避けるため、聖隷保養農園と改称しました。しかし、行き場を失った結核患者などが全国から次から次へと集まってきて、ここでも住民からの厳しい迫害や襲撃を受けることになります。加えて経済状況は極めて厳しく借金だらけで、その日の食糧の調達することさせ困難な状況に陥ります。
1939年12月24日のクリスマス・イブ、万策尽きた長谷川保はついに園の閉鎖を決断しました。まさにその時、奇跡が起こります。翌25日のクリスマスに県庁に出頭するようにという知らせが届きます。その知らせは、天皇陛下から思いもよらぬ多額の御下賜金が下賜されるというものでした。こうして聖隷保養農園は危機一髪のところで救われ、迫害も収束に向かいます。このクリスマスの奇跡が、聖隷の発展の契機になったのです。
隣人愛の精神をもって困難を抱えている人に尽くす。社会の必要に、「やらねばならないことはやらねばならない」という強い信念をもってことに当たる。そこに幸運を引き寄せ、奇跡が生まれるということでしょう。